じっぽ当直日誌・スーパーマイルド@はてな

『さるさる日記』から続く、中年内科医の日常日記。これまでの分はこちら。http://touchoku.jugem.jp

「ヒロシマの子」は、オバマ大統領のスピーチに涙した。

午前中外来、午後から病棟業務。
まだ風邪が治らず、とりあえずシャワーを浴びて休養。
年齢とともに、一度体調を崩すと、なかなか改善しなくなってきている。
にもかかわらず、いなければならない場面が減るわけでもなく、けっこうくたびれるよなあ。

アメリカのオバマ大統領が広島を訪問。平和公園で被爆者と対面し、献花とスピーチ。
事前に聞いた話では、5分程度の短いスピーチとのことだったのだが、実際は20分近くの心のこもったスピーチだった。


www.huffingtonpost.jp


僕は幼稚園から小学校まで広島県内に住んでいて、8月6日の原爆の日は毎年登校日で、被爆者の体験談を聞いていた。
当時はまだ原爆が落とされてから30年あまりで、日常生活のなかにも「語り部」がたくさんいたのだ。
原爆資料館に行った日は、怖くて、悲しくて、眠れなかった。
人間が「影」だけになって残された階段や積み上げられた骨、皮膚が垂れ下がった人々の姿。
地獄絵図というのはこういうものなのか、なぜ、この人たちは、こんな死に方をしなければならなかったのか、と腹が立った。
核兵器なんて、世界に必要なわけがない、と思っていた。

正直、オバマ大統領が広島にいまさらやって来たところで、何かが変わるわけでもないだろうと、あまり興味もない……つもりだった。
でも、平和公園で献花をし、被爆者と握手し、「1945年8月6日の苦しみ」について、「子どもたちの苦しみ」についてスピーチの中で語ったオバマさんをみていたら、なんだか目頭が熱くなってきて、涙が止まらなくなってしまった。
僕は被爆したわけではないけれど、あの「ヒロシマ」の空気ともに生きた子どもだった。
原爆が広島にもたらしたものは、時間とともに忘れられていき、日本の政治家たちまでも「日本の核武装」を語るようになってきた。
現実に、日本は「アメリカの核の傘」に守られている、だから、しょうがないじゃないか。
僕自身も、子どもに「核兵器なんて要らないんだ」と教える自信がなくなっていた。
今が「あたりまえ」だと思うようになっていたのだ。

オバマ大統領は「謝罪」はしなかったかもしれない。
だが、現職のアメリカ大統領がこうして広島を訪問し、被爆者と言葉を交わし、平和公園でスピーチをするというのは、けっしてメリットだけではないはずだ。
アメリカだって、戦争に勝つため、国を守るために多くの人が命を落としたのだし、原爆を落とした兵士たちも命令に従っただけなのだ。
「悪いことをした」なんて思いたくはないだろう。
以前、アメリカで原爆関連の展示を行おうとしたところ、反対運動で開催できなかった、ということがあった。
アメリカにとっても「触れたくない歴史」であり、大統領にとっては、支持者を失うリスクも高い。
今回は、オバマ大統領にとっては、もう二期の大統領を務めたあとで、もう大統領選に出ることもない立場だったのも、大きかったと思う。
だからこそ、「核兵器廃絶」への姿勢を後世に見せるために、あの場に立つことができたのかもしれない。
それでも、僕はなんだか、ほんの少しだけ、報われた、そして、歴史が動いた、ような気がしたのだ。
実際はそんなに甘いものじゃないのだろう。
だが、オバマ大統領の勇気と誠意を感じずにはいられなかった。
これを機に、原爆のこと、広島・長崎のことに興味を持つ人も、世界中にたくさんいるだろうと思う。


僕は、「人生って因果応報で、人はいままでの生き方で、死に様が決まる」と語る人に対して、「じゃあ、1945年8月6日に広島で業火に焼かれた人たち、老若男女は、全員そんな酷い人だったのか?そんなわけがないだろう!」と心の中で叫んできた。
それは、ずっと変わらない。
人が生きているのは、「運」とか「巡り合わせ」が大きく、悪人が早死にするわけでもない。
ただ、それだけのことだ。
そして、そういう理不尽な死の割合が大きくなるのが、戦争というものなのだ。
だからこそ、戦争なんて、やるもんじゃない。


「いまさら、原爆投下のときに生まれてもいなかったアメリカ大統領が訪問してきてもねえ」と思っていたはずなのに、なんでこんなに心を揺さぶられてしまったのだろうか。
ひとつだけ言えることは、「ヒロシマの子」だった僕でさえ、忘れようとしていたことを、オバマ大統領は、世界に向けて、そして、僕に、語りかけてくれた、ということだ。


世界には、たぶん、夢物語を語り続ける人が、必要なのだ。
オバマ大統領、広島に来てくれて、ありがとう。


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