じっぽ当直日誌・スーパーマイルド@はてな

『さるさる日記』から続く、中年内科医の日常日記。これまでの分はこちら。http://touchoku.jugem.jp

安倍晋三元首相の「国葬」が行われた日に。


 安倍晋三元首相の「国葬」が行われた。
 仕事だったので、リアルタイムでは観ていないのだが、長年官房長官として安倍さんを支えていた菅義偉前首相の弔辞は、録画で観ても目頭が熱くなるものがあった。僕は安倍さんを支持していたわけではないし、「国葬」に関しては「どちらでもいい」という感じで、どっちにしても仕事だからやり過ごそう、としていたのだが、こういう儀式というのは、実際に行われているのを見ると、厳粛な気持ちになったり、心を動かされたりするものだ。オリンピックもそうだったものなあ。競技はほとんど観なかったけど。

 Twitterでは「国葬反対」の人が結構多かったようだし(僕のタイムラインには、国葬について言及する人があまりいなかった)、エリザベス2世の葬儀と比較して云々、というのも見かけた。ネットでは、安倍さんを「凡人」「空虚」と述べた評論家の文章が話題になっていた。
 僕も「興味なし」だったのだけれど、菅さんの弔辞にもあったように、若い人たちが安倍さんへの献花のために長い列に並んでいるのを目の当たりにすると、「ネトウヨ」とか「ポピュリズム」とかいう上から目線の言葉ではない、たくさんの「普通の人たち」の思いを無視することはできないな、と考えさせられた。たかが献花、ではなく、自分の時間を使って、誰かのためにあんな行列に並ぶというのは、そんなに容易いことではない。

 田中角栄という政治家が、時間が経つにつれて「日本の高度成長期の象徴」のように、懐かしさとともに語られるように、安倍さんも問題になったところは、どんどん削ぎ落とされて語られていくのかもしれない。いや、こういうセンチメンタルな感情を呼び起こすことこそ、「国葬」の狙いなのだ、と自分に言い聞かせてもみるのだが、僕は安倍さんの取り巻きは大嫌いだったけれど、安倍さん自身はその俗物的なところが好きでもあったのだ。
 そんな取り巻きができることは本人の問題、ではあるのだが。
 いろんな人の話を聞いたり読んだりした限りでは、安倍さんは、とにかく「味方には徹底的に優しい人」ではあったようだし。

 日本というそれなりの大国の首相が、在任中に『笑っていいとも』に出たり、東京オリンピックの宣伝のためにマリオの格好をして動画に登場したりするのは、これまでの首相像からはかなり異質だったと思う。そして、安倍さんという人は、「人々はわかりやすくてネタにできる政治家が好き」だということを、多分よく知っていた。安倍さんは「凡人」で、「俗物」だったからこそ、あれだけ長い間総理大臣であり続けられたのだ。「私はあなたとは違うんです」と言って辞任した人や、仕事はちゃんとやったのに支持率が上がらなかった菅さんのことを思うと、政治家の実力や人気というのは、評価が難しいものではある。安倍さんは、「凡人で空虚」だからこそ、麻生さんや菅さんのような曲者のなかでトップとしてバランスを取ることができていたのかもしれない。漢の高祖、というのは、いろんな意味で言い過ぎかもしれないが。

 安倍さんには、もう少し長生きして、政界を引退した後、自分の言葉で「アベ政治」と呼ばれていたものについて語ってほしかったと思う。
 安倍さんは、多少のフェイクは混じるにせよ、そういう回顧をやってくれそうな人ではあったのに。

 ヤン・ウェンリーは「テロリズムは歴史を変えない」と『銀河英雄伝説』で言っていた。
 ドラえもんは、歴史の改変を心配していたのび太に「使用する交通機関は変わっても、結局、東京から大阪に着くのは変わらないようなものだ」と説明していた。
 安倍さんの退場は残念だし、あんなテロリズムが許されて良いはずがない。
 その一方で、「安倍さんの威を借りた威勢が良いだけで中身のない『チルドレン』たちの権力への道が閉ざされたこと」には、正直、ホッとしている。

国葬」が正しいのかどうかは僕にはわからないけれど、2022年9月27日が、安倍晋三という、日本で一番長く首相を務めた政治家と「ポピュリズムの時代」について考えることができる日になったことには、意味があったのではないか、と思う。