平日休みなので、春休み中の次男を塾に送り迎え。
ちょっと遠い場所まで行っているので、帰宅するほどの時間もなく、授業の合間に少し近くのゲームセンターで一緒に遊んだり、授業を受けているあいだは書店で本を探したりしてほぼ1日。けっこう歩き回るので体力的につらいのだが、息子は春休みだというのに勉強しているのだ。そこまでして子どもに勉強させる意味があるのか、とも思うのだけれど、結局のところ、群を抜く運動能力や芸能の才能や野心がない人間にとっては、勉強はいちばんコスパがいい努力ではないか、と僕は考えている。というか、僕自身もそういう世界しか知らないのだよなあ。
しかし、この年齢になってみると、もっと自分には可能性があったのではないか、と、ふと悲しくなる人生よりも、仕事終わりの1杯のビールで満足できるほうが、生物として幸せではないか、という気もする。
どんなにがんばっても、人間の知識はAIにはかなわない。現状は、自分が専門家として、あるいはかなり勉強していることに関しては、AIはかなり誤認している、あるいは知識をアップデートできていない、と感じることが多いので、「こういうことか」と納得しているジャンルでも「専門家に言わせれば、全然違う」ことはたくさんあるのだろう。そもそも、現状のAIが教えてくれることは多くの人のこれまでの知見の集積なのだし。
ポケモンセンターで事件が起きた。
僕もポケモンセンターには子どもたちと一緒によく行く。
ポケモンセンターオンラインでは「また抽選はずれやがった!」と悪態をつくこともある。
以前、ポケモンセンターで大きめのピカチュウのぬいぐるみを買ったとき、あとで確認したら、胴体に縫われているはずのピカチュウのしっぽの糸が外れてぶらぶらしている状態になっていた。買った時点で外れていたことに気づかなかった可能性もあるし、買ったあとに切れてしまったのかもしれない。
でも、息子が悲しそうにしているので、現物を持ってポケモンセンターに行き、「これ、しっぽを留める糸が切れていたんです」と近くにいた若い女性スタッフに相談してみた。
すると、そのスタッフは状態を確認し、「あっ、そうですね。それでは、こちらのピカチュウはセンターで休ませてあげて、新しいピカチュウを連れてきますね!」とまったく面倒くさがる素振りもなく明るく対応してくれた。
子どもも嬉しそうだったのをよく覚えている。
ああ、ここのスタッフは、ディズニーランドのキャストと同じようにプロ意識を持って、ファンの気持ちを大事にしてくれているのだなあ、ただ交換するだけではなくて、その言葉の使いかたから、子どもたちの前で、ぬいぐるみを「一匹(?)のポケモン」として扱っているのだなあ、と感心したし、僕も一人のファンとして嬉しかった。
そういえば、先日聴いたラジオ番組で、声優の佐倉綾音さんが、『ポケパーク カントー』を訪れた際に、スタッフのポケモン愛とその知識の深さ、当意即妙なポケモンの生息地についてのやりとりなどに感激した、という話をされていた。
こんなことが起こってしまったのは残念、では済まないし、やった人間への苛立ちもある。
その一方で、僕自身だって、そういう境界線を自分がこえてしまうのではないか、という不安もある。
「将来のために我慢する」というストッパーが年を重ねるにつれて、以前より機能しづらくなっている。
この事件の話をきいて、たぶん、被害に遭われた方も、センターでは、僕があの日会ったような、親切で明るい、ポケモン好きのスタッフの一人だったはずだと思った。そして、内面にはストーカーやらなにやらの不安を抱えていても、それをポケモンセンターでお客さんに見せることはなかっただろう。
僕自身、医療という仕事をけっこう長い間やってきて、いろんな感情の波のなかで、人と接する仕事をやる人間として、なるべく自分の心の「揺れ」が表に出ないように意識してきた。
僕自身にどんな「事情」があろうと、それは患者さんとは関係ないのだから。
でも、そういう波に流されそうなときが何度もあり、多少なりとも流されたまま対応したこともあったと思う。
人の内面は、外からすれ違うだけの人間にはわからない。というか、わからないように、みんながんばって生きている。
みんな、大変だよな。僕も大変だけど。ほんと、生きるのって大変だ。大変だと見透かされないように生きるのは、きつい。
「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている。」と、伊集院静さんは書いていた。
だからこそ、ディズニーやポケモンやポケモンセンターは多くの人に求められているのだ。
たくさんの「中の人」も、なるべく幸せに近い場所にいてほしい。それは僕の勝手な願いではあるのだけれど。

