じっぽ当直日誌・スーパーマイルド@はてな

『さるさる日記』から続く、中年内科医の日常日記。これまでの分はこちら。http://touchoku.jugem.jp

平成最後の終戦記念日に、思う。

 終戦記念日
 出勤時に聴いていたラジオで、戦後、孤児院になっていたお寺を昭和天皇が訪問したときの話が紹介されていた。
 昭和天皇が話したまだ小さな女の子は、お父さんが満州で戦死し、お母さんは満州からの引き揚げの際に病死していた。
 「さみしくない?」と思わず昭和天皇が尋ねると、女の子は「父はお国のために名誉の戦死を遂げましたし、私は仏の子どもなので、いつでも両親に会えるから、淋しくありません」と気丈に答えたそうだ。
 昭和天皇が感極まって眼鏡の奥で涙を一筋流したのをみて、その女の子は「お父さん……」と呟いた。
 そして、昭和天皇は、その孤児院を去るとき、子どもたちに「今度はお母さんも連れてくるからね」と仰った、という話だった。

 その後も昭和天皇は、日本や世界のあちこちを巡り、慰霊を続けていった。

 朝からラジオを聴いて泣けてきて困った。
 「お国のために名誉の戦死をした」人々の遺族は、世の中の価値観が急速に変わっていくなかで、どう感じていたのだろうか。
 国のために死ぬなんて、愚かなことだ、と梯子を外されて、苦しんでいたのではないか。


 昭和天皇が行くことができなかった沖縄に、今上天皇は訪問し、その後も遺志を継いで、慰霊の旅を続けてこられた。

 あらためて考えてみると、太平洋戦争のときの今上天皇はまだ子どもで、あの戦争に直接の責任はなかったはずだ。
 僕だったら、小学生のころ、自分の親がやったことに責任をとれ、と言われたら、「知るか!」って突っぱねると思うし、それが普通ではなかろうか。
 にもかかわらず、今上天皇は、生涯をかけて、慰霊の旅を続けてこられたのだ。
 僕自身、戦後の平和教育を受けてきた世代で、昭和天皇の戦争責任は「無いとは言えない」と考えている。
 いまの皇室への信頼感は、今上天皇美智子皇后が続けてきた誠実すぎる祈りが築き上げてきたものだ。


 平成最後の終戦記念日に、平和のために身を粉にしてきた人たちのことを思う。
 いまの大人が子どもたちに遺せる最大の遺産は、勉強できる環境と戦争に行かなくてもすむ世の中なのだろう。ヤン・ウェンリー提督ではないけれど。


headlines.yahoo.co.jp
fujipon.hatenablog.com
激動の平成史 (洋泉社MOOK)
平成史
銀河英雄伝説1 黎明篇 (らいとすたっふ文庫)