じっぽ当直日誌・スーパーマイルド@はてな

『さるさる日記』から続く、中年内科医の日常日記。これまでの分はこちら。http://touchoku.jugem.jp

新型コロナ禍の世界で、映画『天気の子』がテレビ初放映された。

 1月3日。もう正月休みも終わりだ。今年はカレンダー的には、僕の平日休みの木曜日が大晦日で、3日が日曜日という、最速で!最短で!まっすぐに!一直線に駆け抜けていく正月休み。シンフォギアアアアアーーーー!!!(壊れた)

 明日からは仕事も株式市場も再開される。ちゃんと4日間休めただけでもすごいこと、ではあるのだが、人はラクなほうには慣れる、すぐ慣れる。そして、自分がつらい思いをしていたときの恨みは忘れないが、そのときの覚悟や小さな喜びはすぐに記憶から消えてしまう。

 夜、映画『天気の子』が、テレビ初放送。ああ、映画館で観て以来だなあ、となんとなく観はじめたのだが、観ていくうちに、よくこの作品を、新型コロナの第3波で首都圏に緊急事態宣言が再び出されようとしているタイミングでぶち込んできたなあ、という気分になってきた。
 僕はこれを映画館で観たときには、「世界や他の人たちを救うために、陽菜が犠牲になるという選択をしなかった」ことと、「それでも都合良く世界は救われる、ということはなかった」という結果に、なんだかすごく「新海誠監督、やってくれたな!」と嬉しくなったのを思い出す。


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 だが、今、この新型コロナウイルスが蔓延し、危機が身近なところに迫ってきているときに観ると、陽菜が実際にいたら、きっとみんなが「限りなく強制に近いお願い」を陽菜にするのではないか、という気がする。いや、僕だって、「なんで陽菜はその力があるのに、みんなを救ってくれないんだ」と内心で責めるか、聴こえないところで愚痴を言うだろう。ここが、好きで感染したわけじゃない、どこで感染したのかわからない新型コロナウイルス患者にさえ、「お前がちゃんと予防しないのが悪いのだ」という言葉が浴びせられる世界であることを、新型コロナは浮き彫りにしてみせたのだ。どんなに感染予防をしていても、感染する確率をある程度下げることはできるが、「絶対」ではない。それが感染症というものだ。小松左京の『復活の日』みたいに、南極にでもいれば話は別かもしれないが。『天気の子』をこの状況下で観ると、「陽菜や帆高に共感できる」のは、自分が安全圏にいるときだけなのだ、という現実を突き付けられる。この映画を観たときに僕の心にあったはずの「自己犠牲を強いられる人たちへの想像力」は、どこへ行ってしまったのだろうか。愛にできることはまだあるかもしれないが、愛だけではどうしようもないこともある。愛する人の心臓が止まるときにその場に立ち会わせてもらえないなんて、新型コロナ前だったら、多くの人が怒り狂ったはずだ。でも、「感染予防のためなので仕方が無い」という大義名分があれば、ほとんどの人が、それを受け入れてくれている。戦争中は、遺骨や遺品すら戻ってこなくても、憤りを表に出せる人はいなかった。人の「あたりまえ」なんて、状況次第で、あっけないくらい変わってしまう。本当に、これをいま放送したのは英断だと思うのだけれど、SNSで感想を観ていたら、それはそれ、これはこれとばかりに、素直に「帆高と陽菜よかったね!」と感動していた人が多かった。まあ、そんなものか。というか、僕が過敏なのか。


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天気の子

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